人類初の宇宙飛行を成し遂げた国、ロシア連邦。ヨーロッパ大陸最高峰・エルブルース峰は、その国にあります。ソ連の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンが宇宙から伝えた有名な言葉より、宇宙船ボストーク1号が発射された際に彼がつぶやいたとされる「さあ、行こう!」という言葉が好きです。これから未知の世界に向かう気持ちが短い交信記録からも伝わります。その情景を思い浮かべながら、ヨーロッパ大陸最高峰を旅します。
登山は登頂出来なくても楽しめますが、やはり山頂まで辿り着いて「登った」と言い切れると気持ちがいいものです。予備日を全て使い切り、最後の日に登れたことも嬉しさを昇華させます。あまり良いことではありませんが、山小屋までのドタバタ下山劇も全員が無事に戻れ、反省含めて今後の登山活動に良い経験となりました。夕食時、クッキングガールのタチアナさんが「おめでとう!」といって出迎えてくれました。タチアナさんは、いつも料理をしながら歌っています。突然の聞き慣れた楽曲に驚かされます。伝統的な日本の歌曲「さくらさくら」を聴きながら、夕飯が出来るのを待ちます。楽しそうに料理をされている姿に、こちらも嬉しくなります。
夜半前、外から「星が見えている!」という声が聞こえてきます。寝ぼけながら暖かいシュラフを抜け出し、夜空を見上げると見事な快晴ではありませんか!鳥肌が立つとはこのこと。仕事柄、満天の星は見慣れているはずですが、星の数が数段違います。観測地の標高によるものだけでなく、数時間前までの降雪、雲海によって下界からの光害を覆い隠されているなどの要因が重なり、完璧な星空を最後の晩にお披露目していただけました。シュラフと別れを告げ、徹夜で星空散策を楽しむことにします。日本から持ち込んだマグネシウムボディとカーボンパイプの大型三脚、小型天体望遠鏡を大型ザックから取り出して組み立てます。
アコンカグア峰のキャンプ地で、次回の登山では天体望遠鏡を運び込んで世界中から集まった登山者の皆さんと、星空観望会を楽しもうと考えていました。土星と木星が輝いていますが、時刻は深夜、残念なことに誰もいません。山小屋から離れた所に共同トイレが設置されています。ここに天体望遠鏡を設置していれば、トイレに来た方々にお見せ出来ると思い、満天の星を眺めながら来訪者を待ちます。そのプランは良かったようで、時々トイレに来る方々を順番に天体望遠鏡にご案内します。天体望遠鏡の接眼部を指さし「この覗いて!」みなたいなジェスチャーだけで十分、木星と土星の姿に説明はいりません。天体望遠鏡で惑星を見られた、皆さんの驚きと嬉しそうな表情に大満足です。立ち寄っていただいた方々に「どこの国から来たんですか?」と尋ねてゆきましたが、中には「ここロシアだよ」とお互い静かに笑い合ったことも良い思い出になりました。
氷点下まで下がったのでしょうか、天体望遠鏡に霜が付きはじめます。霜のことを「青女」とも呼ぶ美しい異称があります。しんしんと凍り付いてゆく姿に、霜の声が聞こえてきそうです。夜寒に包まれると共同キッチンでひと休み。一晩中、一つだけ点灯している白熱電球が無機質なキッチンを素敵な空間に演出します。夜が明けようとする頃、アメリカ隊の方々がキッチンに入ってきました。今日、再び山頂に向かう予定なので天候がとても気になるとのこと。同じ登山者同士、言葉を多く交わさなくても、その気持ちは分かります。
飲み慣れた甘い紅茶をいただきながら、登山をゆっくり回想します。山登りは、準備、行動中、振り返り、三つセットで楽しめす。いつでも楽しめる一生の思い出が、また一つ増えたようで嬉しくなります。星座はいつどこで眺めても、その形は何も変わりませんが、今晩眺めた星空も同様に、一生の思い出となりました。これから先、木星と土星を眺めるたびに、エルブルース峰での星空観望会のことを思い出しそうです。
山頂に立ち、満天の星にも包まれた後の満たされた気持ちからでしょうか、これ以上澄み切った空があるとは思えないほどの清々しい青空です。深呼吸の気持ちのいいこと。メンバー全員でこの東雲色の眺望を楽しみます。
天体望遠鏡は、観光地に設置されているような地上望遠鏡の役割に早変わり、皆さん思い思いの方向に鏡筒を振り回してコーカサス山脈の眺望を楽しみます。天体望遠鏡と大型三脚を持ち込んでいたことは、お知らせしていなかったため、「よくこんな機材をここまで・・・」と感心されていることと呆れていることが、その微妙な表情から伺えます。
コーカサス山脈での御来光です。
その瞬間、ブルー系の色彩の世界から。
暖かみのある太陽光色に染まってゆきます。
雪の結晶ひとつひとつが輝き、満天の星を再び眺めているようです。
桜花紅に染まった双耳峰も、
真っ白な新雪の姿に。ここはスキー場です。登山者にとっては登って下山する峰ですが、スキーヤーにとっては登って滑走する峰です。登りを楽しむのか、下りを楽しむのか、同じ峰でも遊び方は様々です。
東峰(標高5,621 m)
西峰(標高5,642 m) 天体望遠鏡で眺めながら、ルートを思い出します。見覚えのある岩を丁寧に追って、山頂までなぞります。ちょうどその時、アメリカ隊が山頂に向けて再出発されるため、メンバー全員で見送ります。
電球の灯りが不要なほど、朝日が射し込むキッチンの雰囲気に嬉しくなります。タチアナさん、リィーナさん、ビクトリアさんに作っていただく最後の朝食。荷物となる残った食材を出来るだけ少なくさせるため、朝食はバイキングのような食べ放題です。美味しい食事を毎日用意していただいたお礼として、日本から持ってきた民芸品をプレゼントし、背丈が自分の肩までもない小柄なタチアナさんと記念撮影をお願いしました。
※2002年9月にフィールドに訪れた際の記事となります。