山頂は憧れていた場所ですが、最も危険な場所。この標高によるダメージが出はじめるのにはタイムラグがあるため、その兆候が出る前に一刻も早く標高を下げます。登頂の喜びは、登山のゴール。BCでゆっくり浸ります。山頂から、一歩進んだ時から、「登山」は「下山」に変わります。ひたすら上を目指していた行動から、ひたすら下を目指します。
もはや場違いの物体にしか思えない重量感のあるデジタル一眼レフカメラ。せっかくここまで運び上げたので、頼まれてはいませんが喜ばれると思い、山頂直下のコルで他の登山隊の隊員たちも撮影します。この安全なコルで下山の準備を整えます。酸素ボンベのレギュレーターだけでなく撮影機材のバッテリーも確認します。
準備が整った隊員からソロでC4へ次々と下りてゆきます。隊員ひとりひとり下山してゆく姿を撮影します。クライミング・シェルパ含めて我々の隊員全員の後ろ姿を見届けた直後、大変なことに気がつきました。酸素が正常に吸えません。マスクを装着していると、窒息しそうです。
マスクを慌てて外し、酸素ボンベのレギュレーターを確認しても、残量に問題はありません。酸素マスクのトラブルです。C4出発時に一番心配していた山頂付近での酸素トラブルが、仲間の隊員を全員見送ったタイミングで現実に起きてしまいました。
あまりにも出来すぎのB級映画のシナリオのようです。現実に起きている当事者でありながら映画を鑑賞している気分で、そのストーリーに呆れた感じです。これがクライマーズ・ハイの影響なのか、恐怖心を感じないばかりか、危機感からの焦りも湧いてきません。マスクを外しての下山がはじまりました。この恐ろしい現実を正面から受け止めないよう、気持ちを誤魔化しながらの下山開始です。
しかし無酸素のダメージはすぐに現れました。下半身に力が入らなくなり、本人の意志に関係なく、突然、勢いよく崩れ座り込みます。その場所が、柔らかい雪面だと、新雪で下半身が埋もれるほどの勢いです。その様子を見ていた後続の登山隊の隊員が心配して声をかけてきます。
マスク越しに大声で「右のアイゼンが外れかかっている!」と叫んで教えてくれています。アイゼンが外れかかっていることは知っていましたが、直す気力と手に力が入りません。万が一、アイゼンが外れたら致命的と分かっていても、「立つこと」と「歩くこと」以外、何も出来ません。
山頂からC4までの区間は、数カ所のシーンを写真のように覚えているだけで、途中の記憶がありません。気がつくとC4に到着していて、我に返っていました。とても不思議な体験です。
遅れた理由は説明しないまま、C4の撤去作業が始まりました。荷揚げされていた個人装備を全て回収します。この標高、この体調でありえない程の重量です。立ち上がった際、高所ブーツが雪面に潜り込みました。酸素マスクの状態を伝えないまま、C3へ再び下山を開始します。C3からC4は、酸素を吸いながら登りましたが、下山は大丈夫と判断しました。
フィックス・ロープは1本です。登りと下りの登山者が交差する際、どちらかがユマールを外します。その場面は少なくありません。C4を出発してすぐに、こちらのユマールを外す場面がありました。
その瞬間、バランスを崩し、腰に力が入らないため、全個人装備を背負った重量のあるザックが谷側に向いた拍子に、自分の周りが新雪ごと流れ始めました。漠然と「こんな滑落の仕方もあるのか」と他人事のように思った時、どこの登山隊の隊員か分かりませんが、ロープを譲ったその隊員が、もの凄い力で右腕を掴んで力任せで引き上げてくれました。右腕を掴まれた、力強い感覚。ゴーグルをしていた顔。このふたつは、忘れられません。
仲間から大きく出遅れ、ひとりだけでの下山です。あまりにも苦しかったのか、ここでも記憶が抜けていて覚えていません。
気がつくと、前方に数十人が立ち止まっています。疲れ切ったのか、体調が悪いのか、座り込んだまま、動けない隊員の姿も見られます。下山ルートの大規模な崩壊です。ルートが崩れ落ち、大きな谷になっています。日は沈みかけ、薄暗くなりつつあります。気温も下がってきていますが、幸い無風なので寒くは感じません。
全登山隊が協力して、この課題を解決します。運が良いことに酸素マスクの調子が戻り、酸素を吸えるようになりました。山頂直下から無酸素で下山していた身、酸素を吸うと信じられないぐらい、力が湧き、意識が明瞭になりました。ルートが崩壊した箇所はエイト環を使って懸垂下降で谷底まで下りた後、ザイルを使って雪壁を垂直に登ります。
酸素の力は偉大で、気持ち良く崩壊現場を通過することが出来ました。副隊長と一緒に緩い斜面を下山していると、遠くに黒い点として、C3が見えてきました。すぐ後ろを歩いている副隊長が、大声で何やら喜びのような奇声を上げました。いつもクールな副隊長の、その珍しい雄叫びを聞きながら、責任のある立場なので、相当のプレッシャーを感じていたことに、今さらながら気がつきます。
午後5時30分C3到着。日没30分前。行程15時間。
ザックからシュラフだけを広げて、夜に向かう薄明をゆっくり眺めます。上部を見上げると、気象予報通り荒れはじめています。
寝る前に楽しみにしていたコーヒーを準備します。いつもおいしく飲むコーヒーですが、体が全く受け付けません。本人に自覚がないだけで、体は相当なダメージを受けていることを、コーヒーが分かりやすく教えてくれました。
ヒマラヤ・世界第8位高峰マナスル峰(8,163m)遠征 vol.20 へ